昭和50年1月29日 朝の御理解
中村良一
御理解 第34節
「ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、帰ってから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨むような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。ありがたく受けて帰れば、みやげは舟にも車にも積めぬほどの神徳がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ。」
御理解のなかにも、こんな具体的な御理解は少ないですね。確かに、ここに、神様の言うことは聞かずに、自分の言うことだけを聞かせようとするという事なんです。ね。しかもほんなら、その神様が、大変な、難しいことを言われるのじゃない。もう、日常茶飯事の中に、ね。そうしたが一番楽な生き方。そうしたが一番有難い生き方を教えられるのです、金光教の御教えというのは。さぁ、火の中に飛び込むの、水の中に飛び込むのなんていうような御教えは無いのです。ね。心のありどころ。それを教えて下さるのです。だから、それが、心がそのまま、形に表れている生き方を、実意丁寧神信心と言うのです。ね。ですから、本当に、あの、やはり、神様に言うことを聞いてもらいたいなら、まず、神様のいう事を、こっちが聞かせて貰うという姿勢が、本気で作らなければいけない。しかも、有難いことはね。ここにも教えておられます。神の一言は、千両の金にも替えられぬと仰せられております。ね。そんな、平易な事なんです。難しいことじゃ無いのです。ね。それを難しゅう考えると、それなら、もうそんな、人間じゃけん、そげな訳にいかんというようなことになってくるんです。ね。けども、その気になると、その事が有難いことになるのでありますし、初めて、なるほど、神様の一言と言うのは、千両の金にも帰られないほどしのものであることが分かってくる。千両の金にもかえられんということは、どういうことかと言うと、ね。土産は舟にも車にも積めぬほどの神徳があると仰せられる。金光様の御教えをね。私共が頂いて帰って、それを有難く行じていくところに、もうそれは、そのまま、神徳の積み重ねなんです。素晴らしいでしょうが。ね。その神徳を積み重ね。その神徳が一つの形に成就して、ね。おかげを頂いてまいりますところに、人間の生死を通しての幸福が約束されるのです。
まぁ、日々の朝の御祈念をさせて頂きます時に、もうその御祈念の、その、私の御祈念の内容と言うのでしょうか。それこそ、夢はもう限りなく、世界中を駆け巡る感じが致します。いや、夢ではない。もうこれが、それが、本当に実現していかなければならない、言うなら、確信を持っての願いである。それは、そこのところだけを話ますと、もうまるきり、親先生は、夢のごたる事を言いござるとか、ね。本当に、誇大妄想狂じゃないだろうかというような事に聞こえるかも知れませんけども、私が、御祈念の時間に、その事を神様に願っておるその事は、夢でもなからなければ、誇大妄想狂的なものでも無いという事。もう、本当に、世界中の氏子が、ね。お取次ぎ成就信心生活運動と言う、そういうお取次ぎが成就する。金光大神の願いが成就するということは、そのまま、天地金乃神様の願いが成就すると言うこと。その神様の願いと言うのは、それこそ、夢といや夢のような事ですけれども、ね。世界中の、いうならば、難儀な氏子が取り次ぎ助けられるという事である。ね。そういう、例えば、大きな願いに、それこそ、心いっぱいに、それを感じさせて頂くけれども、ほんなら、結局、どういう事かというと、けれどもその、それに向かって進むのは、やっぱり、一歩一歩であるということです。自分のところから、一歩一歩なのです。ね。
昨日の御理解のなかにも申しましたですね。ずーっと、私が、あの、おそばを食べているお夢を頂いたという、ね。もう、一番身近な、一番そばにある、その問題を、如何に実意に丁寧に神信心を、そこから現していくかという事以外にないです。私の、いうならば、祈念の内容というのは、世界中の氏子の一人一人がであり、ね。世界の、全ての国々がであり、ね。世界真の平和、世界総氏子身の上安全、ね。ただ、それが、唱え言葉だけではなくて、本当にそれを、実感として、祈り願わせていただく。そんなら、行の上に、それが実現して行くことのために、させていただく信心と言うか、修行というのは、もう、私に、一番身近なところにある。一歩一歩進んでいく、その問題の中にあるのです。ですから、日々の御理解、御教えというものがです、ね。その日の、いうなら、一日の信心の、ね。羅針盤のようなものです。ね。例えば、航海をする船に、羅針盤がなかったら、ただ、無茶苦茶に行っておるだけでは、目的には着きません。ね。それこそ、一分一厘間違いのない羅針盤の指し示すところに基づいての航海であって、始めて自分の願いの港なら港にも着けるのであって、また、着けるという確信があるのであって、ね。私の一歩一歩はもう、間違いの無い、絶対のもの。もうそれは、本当にもう、日々ですね、ただ、恐れ入るより他にないです。
もう、昨夜、九時の御祈念を終わって後からの事だけの、二三の問題を取り上げてもそうです。昨日私が、出てまいりましたのがもう、九時ちょっと過ぎでした。だからもう、御祈念を終わって、もう、御簾も終わってしまっているところでした。けれども、私がここへ出てこなければ、御神前に出らなければ出来ない、次々と、その問題がね、お取次ぎを願いに見えられる方達の、その問題というものがです。もう、本当に、はぁ、こういう一分一厘間違いのない働きの中に、おかげを頂いておるんだと言うこと。ね。そういう、一分一厘間違いのない働きの中にです。例えば、起きてくるのですから、それがどんなに悲しいことであろうが、ね。苦しい事であろうがです。こんなにも間違いのない働きの中に起きておる事だから、それはおかげだよと、私が確信を持って言えれるんです。お礼を申し上げることだよと言えれるんです。
日田の坂本さん達が、ご兄弟で参っておられた。もう、私が居らなければ決らないし、また私が、ここに居って、そのお取次ぎさせていただきゃもう、本当に問題が、その場で解決するような、さっぱりした御理解が頂けれる、その事になるのです。ね。
夕べ、内田さんところの孫になります。まぁだ、生まれて間もない恵子ちゃんというんです。もう、生まれた時から、病弱でしたが、もう、それはそれは、なんとも言えんおかげ働きの中に、おかげを頂いておりましたけれども、昨日、それこそ、悲しい事ですけれども、お国替えのおかげを頂きました。それが、お国替えのおかげを頂いたのが、九時、えー、まだ、亡くなっとらんのに、亡くなっとると思って、お届けをしとったらしいんです。私が、出てまいりましてから、出てきてここを下がって、食堂まで行っておるところに、改めて電話が架かってきた。それが本当のお国替えだった。それを、私が、お取次ぎをさせていただいた。そればってん、あの公子さんが、「公子さん、こげん間違いのない働きの中にじゃけんね。悲しいことに間違いはないけれども、有難いことだよ」と言うて、お話をしたことでした。それから、下がらせて頂いておりましたら、また、誰かお参りになっとる。そら何と、末永先生のところのご信者で、壱岐から来とるとです。それがその、表で、「もしもし」ち言うげなけれども、誰も出てこんげなから、その、ずーっと裏のほうから入ってきてるんです。内玄関のほうから。それで、どうして入ってきたかと言うたら、ガラス戸がですね。昨日に限って開けてあったそうです。ほう、そらちょいと、不思議なこっじゃある。ここだけは、昼でん、大体、閉まっとるとに、よさる開かっとるとは。まぁ、一身上の大変な問題でした。まぁ、それが、いうならば九時の御祈念を終わってから、三四十分の間におきておる事だけですけれども。どの一つ一つでも、ほんなら、間違いが無い。なら、一番最後のなんかは、もう下がってましたけれどもです、ね。ちゃんと、神様が、あの、内玄関のほうは開けて待っておられるという感じなんです。ね。そういうです、いうならば、一分一厘間違いのない働きというのが、私が、ね。言うなら、世界中の事を願うとか、総氏子身の上安全とか、世界真の平和とかと。そういう大きな願いを、切実な願いとして、願っておるけれども、そういう大変なことであっても、進むところは、やっぱり、一歩一歩であるということ。行って一足飛びにはいけないということ。それがほんならば、合楽の最近のゴヒレイに現れておるのであり、合楽示現活動の内容として、その実が、事実挙がっておるという事なんです。それは、一歩一歩なんだけれども、しかもそこは、間違いの無い、一分一厘間違いのない働きの中にです。
昨日、ある方が、息子さんたち夫婦が街に出ております。そちらから電話がかかってきた、嫁から。「お母さん、もう直ぐきてください。」もう大変な問題らしいんです。それでもう、お母さんも、取るものも取り合えず、まぁ、やっぱ、十何里もありますとこですから、その参りました。もう、話を聞いてみると、大体治まっとったらしいですけれども、話を聞いてもう、親先生、そういう時に、私の、いうならば、あの、心の置き所。どういう風にあの、それを受けて言ったら良いでしょうかというて、昨日、そこに一晩泊まって、帰りがけに、ここによってからのお届けでした。そしたら、神様からね。しかし、そういう問題は、どうにも仕様がありませんもんねて。もう、それを結局、まぁ、やっぱり、こら自分の家の巡りが、そんな風にして現れておるという風に頂いて、もう、それこそ、まぁ、難儀なことだけれども。やれいたや、今、みかげをと言うような心で受けるより他にないけれどもね。それを、そう受ける心がね。なかなか出来ないとこう言うのです。そしたら、御神願に、青いという字を頂くんです。青いはやっぱ青い、そして、次の、こちらに争いという字を頂くんです。青い争いと頂く。こう、一つの字にしてごらんなさい。静かという字になりますね。ね。だからその、青いということは、識別で、ここで御理解を頂きますと。そら、紫の色を頂いたときには安心とか、ね。真っ赤な色を頂いたときには、信心に熱情とかというふうに、色々、ありますように、青というのは、いわば、生き生きとした、あの、新芽の色、ね。青い青葉の色。いうならば、生き生きとした信心という意味なんです。ね。
神の一言は、千両の金にも替えられないと。私は、御理解を、皆さんに聞いていただくときに。まぁ、いうならば、一言で決まること。はぁ、ほんにそうですとこう、あの、例えば、昨日の、日田の坂本さんのお取次ぎをさせて頂いた時もそうでしたけれども。ね。常日頃、坂本さんの信心が出来ておらんならです。私が言うても、はぁ、そうですという風な風には出てこないです。日ごろ、生き生きとした信心をさせて頂いておるとです。その場では、迷うごたるですけれども、一度ここへ出てきて、お取次ぎを頂くと、親先生の一言で決るということは、心がさっぱりすると言う事なんです。ね。
昨日のその、子供さんの問題の場合でもそうです。ね。自分の心がです。それこそ、朝参りでもさせて頂くというような、生き生きとした信心をさせて頂いておりますとです。それは、場合によっては、即、その場で、そらあんた心配することは要らんばい、おかげばいと、その場でいうてやれれるようなね、おかげも頂けますけれども。そら、どうするのと、例えば言うようなことであっても。とにかく待ちなさい。親先生にお伺いをしてから、お願いをしてからということになってまいります時です。ここで、お取次ぎを願って、言うなら、神の一言を聞いた途端にです、腹が決ってしまう。いうならば、自分の心が、今まで、ね。言うなら、乱れに乱れておった心も、静かに、それこそ、心に波風が立たないようなおかげになってくるんです。ね。それが、次の、ほんなら、またおかげにも繋がっていくのです。そういう、例えば、そういう、いうなら日々なんです。神の言うことを聞いて、ただ聞いて帰っただけじゃなか、自分の心がさっぱりと、すきっとするほどしの頂き方をして帰らなければならない。そして、親先生が言われるとおりだと言う事を実行するのです。それは、おかげに伴うだけではなくて、神の一言は、千両の金にも替えられんのですから。それが、積り積って、ね。おかげは車にも舟にも積まれぬほどの神徳があると仰せられる。その神徳が、積り積って、大きな神徳。いわば、人間の幸福の条件の全てが足ろうて来るほどしのおかげにもなってくる訳なんです。ね。だから、日々、そういう生き方です。ですから、もう私が、如何に世界中の事を祈り、世界総氏子の事を、本気で祈らせていただいておって、ね。でも、私の生き方がです。羅針盤に、例えば、指し示すとおりの生き方をしておらなければね。それは、誇大妄想狂でしょう。はぁ、大きなこつばっかりいう事になってくるでしょう。ね。けれども、私の言うところ、一分一厘間違いのない、いうならば、夕べの、もう、ここが終わってしまって九時から、九時半までの、例えば三十分間の間にすらです。そういう、もう、一分一厘間違いのない働きを、そこに感ずるわけです。この生き方で、だから、それは、大変、ね。人間の一番悲しい事ですよ。ほんなら子供を亡くするなんていうことは、ね。幾ら、生まれたばっかりの子供であってもです。ね。けれども、その悲しいことだけれども、お礼が申し上げなければおられないほどしの体験が、その前後に伴うておるという事です。生まれてから、もう何遍、もう難しか、もう難しかで、その度々に、おかげ頂いていく、その具合というものは、もう、本当に、このまま、健康のおかげを頂いていくかと思うばかりのおかげでした。その間に、信心のなかった、いわば、娘婿であります、松永さんが、もう本気で、神様に向かうことになり、しかも、それが、神様のおかげと分からせて頂けれるくらいに成長したんです。
昨日の、朝の御祈念の時には、あのとにかく、あなた、生まれたばっかりの子供の、その、腸捻転ち言うか、腸が、こんなに、風船のように腫れてるわけです。お腹が、こんなに膨れてるんです。だから、もう、とにかく、まぁ、請合われないけれども、手術だけはしなきゃならんと言うので、もう、それも縦横に、お腹を切ってね。その腸を、このくらいばっかり切って取って。もうそれだけで終えるような状態だったですけど、おかげ頂いて、昨日の昼ごろにはもう、唇の色も出て、まぁ、ちょっと、安堵のおかげを頂いておると言うぐらいな事でした。さぁ、輸血をしなければならない。B型だと 。お父さんが、B型だから、採ろうと思うたが、お父さんが貧血症だから、父親の血は採られないと。そこに、隣のベッドにおる人が、私の主人がB型ですからと言うてから、わざわざ、久留米から、北野の近所までの、その、ご主人に電話をかけられたら、ご主人がもう、飛んできてくださった。そして、その輸血が、無事に出来た。もう本当に、私は、その話を聞きよってから、信心があってもなかっても、人の善意ということの素晴らしい事。その親切の有難いこと。もうほんなこて、神様のおかげと言うけれども、もう、恵子さんの恩人だねというて、昨日お話しました。そして、そしたらその、隣のその方が、もう退院で帰られることになった。ちょうど、その時に、その、またみさんが、そこに来合わせた。だから、ほんなら、移られるとには、私の車使うて、あの、してあげましょうと言うて、あのまぁ、させてもらいましょうというてですね。その、お手伝いさせていただいて、これも大変喜ばれ。私はもう、人間の世界と言うものは、こういうね。喜び、喜ばれるようなね。おかげが頂けれるんです。実際、内容に持ってるんです、信心がなくても。ね。ましてや、だから、信心のあるもの同士ですからです。ね。ここに、本当に、人を助けることの有難いこと、ね。またそれに、報いる心の美しいこと。しかもそれがね、素晴らしいタイミングの中に、それが行われているという事がですたい。ね。お父さんの血ば、採ろうと思うたけれども採れない。けれども、そこには、ほんなら、その方が、おかげをいただいて下さる。屋移りをしようと言いよるところに、ほんなら、ちょうど来合わせて、そんなら、私が運んであげましょう。もう本当に、こうね。あの、そういう私は、それこそ、キリストの言葉じゃないけれども、あざなえる縄のようにです。人間の世界というものは有難い。そういう風な世界にならなければならんのです。それが、神様の理想の人間の世界であるのですけれども。私共は、ただ、ほんなちょっとした、我情我欲が、反対の事へ、反対の事へなってね。争いから、争いを続けんならん結果になってくるのです。ね。そういう、おかげのなかに、昨日一日終わらせて頂いて、昨日の九時十五分。ちょうど私、九時十五分でした。それで、まだ、御祈念中に、幹三郎がお取次ぎさせて頂いてる時に、その、お国替えのお届けがあったち言うんですよ。けれども、実際のお国替えは、その、私が出てきてからであった。もう、それこそ、神様が、待っておってお届けして下さる感じでしょう。しかもその、前後の事から思うてみてです。そういう間違いのない働きの中に、はぁ、あのことだけは、腑が良かったではなくて、腑が良かったことが続いて続いて、続いておるのですからです。その事も、おかげの中にあるんだと、お礼を申し上げなばいけない事だよということが言えれるわけです。ね。そこに、私は、あの、神の一言は、千両の金にも帰られないほどしのものを、皆さんが実感される。そういう、日々、お取次ぎを頂いて、おかげを頂いておる。その事が、いわば、舟にも車にも積めぬほどの神徳になっていくのです。ね。だから、それがね、その、とぷん、とぷんじゃなくてね、日々、続かなければいけんのです。ね。神の言うことは、いうならば、途中で落としてしもうて、そして、神を恨むような結果になっては、相すまん事です、ね。そこで、いわばあの、ね。合楽のあり方に、何時も歩調を合わせておくというか。一つの奏でられておるところのリズムに乗った生き方を身に付けていく。それは、教えを、いよいよ本気で、生き生きとした心で、ね。どういう例えば、それが、争いの様相を示しておる事であっても、生き生きとした、ね。信心の心でそれを受ける時に、それは、静かな静かな心で受けられる問題であって。お礼を申し上げる事でこそあれ、例えば、争いを、そこに起こすような事はない。例えば、娘達、息子達が、ほんなら、その例を、昨日お届けさせて頂いた、その事でもです。ね。息子達夫婦が、如何にやれやれやっておってもです、ね。それもまた、おかげであるとして、ね。いうならば、もうお母さんどうしましょうかと、嫁が言う時に、心配しなさんな。お取次ぎを頂いてのことだから、あんた心配すること要らんがと言えるわけなんです。ね。そういうおかげを頂いていくことが、ね。神徳。舟にも車にも積めぬほどの神徳であります。ね。それが、募り募って、初めて、ね。神様の願いの世界に、私共も一緒に済むことが出来るのです。
昨日の御理解の中に、永久性、それから末広性、それから審美性と言う事を、ちょっと申しましたね。昨日、この事を、昨日は竹葉会でございましたから、竹葉会では、この事だけを芯にして、もう本当に有難い、まぁ、おかげを頂いたんですけれどもです。本当にあの、永久性のある信心、ね。しかもそれが、あの、親の代よりも子の代に広がっていくような、末広がりの、いうならば、内容を持ったところの信心。ね。しかも、良いこと悪いことが、はっきり識別の出来れるところの心というものが育っていくような信心。そういう信心を、お互い目指していかなければいけません。ね。それを、例えば、今日辺りの御理解で頂きますと、それこそ、とにかく、先ず、一歩一歩を大事にしていかなければいけないという事ですよ。ね。今日、只今、持っておる、その問題をです。ただ、おかげを頂くためには、その問題とは違った事であっても、今のその、起きておるその問題をです。ね。いわゆる、自然と仲ようすると言う、そういうおかげを頂かなければいけないです。ね。それを私は、信心で頂こうとする心こそがです。ね。実意丁寧神信心だと思います。神に一心とは、迷いのないことぞ。例えば、今日のお話を聞いてくださって、本当にそうだと、一心が決まったら、それを続けていくことが一心です。ね。先生はあげなこつ言うけど、ほんなこつじゃろかと、そこへ迷いが起こったら、おかげにはなりませんです。昨日のお届出したか、お知らせに頂かれて。信心はね、理屈ではないと、と言う事を、そういう意味の事をいただいております。もう、信心はね、どんなに頭の良い人であっても、理屈じゃないです。もう、取次ぎ者が言うこと、即、神の一言としていただく稽古をして行く以外にはないです。そこから、いうならば、神徳。ね。舟にも車にも積めぬほどの神徳が、身に、段々付いてくるのです。